焼肉ドラゴン

★ 日韓合同演劇「焼肉ドラゴン」を観て家族を想う…★

2008年4月に東京の新国立劇場で上演された「焼肉ドラゴン」を、8月10日モザイク仲間と我が家のホームシアターで上映した。舞台は1970年の大阪万博の開催地の片隅にある在日1世が営む焼肉屋「焼肉ドラゴン」。家族と常連客が繰り広げるにぎやかで騒々しい物語だ。登場する俳優は日本人、韓国人、在日コリアンで、日本語と韓国語が入り混じり熱気ムンムン。「韓国語落語」で活躍中の在日3世の落語家、笑福亭銀瓶が俳優初デビューで熱演している。実は私、銀ちゃんの大ファン!銀ちゃん大大大ファンで追っかけの先輩が東京まで観に行き、「今までで一番感動した!」と大絶賛。そしてテレビ放映を録画し、銀ちゃん直筆のタイトル字とサイン入りのDVDを私にプレゼントしてくれた。へへ、これ私のお宝!プチ自慢ついでに銀瓶さんのことをちょっと。
銀ちゃんは本当は教師になりたいという夢があったんです。でも高校受験の時に在日は国籍条項で教師にはなれない!ということを知り大変なショックを受け、父にエンジニアの道を進められ工業高専に進学。しかし自問自答の末、人の前に立って人を笑わすのが好きだと、笑福亭鶴瓶に弟子入りし落語の道に…「在日やったから日本と韓国の両方を知り、どっちがじゃなくて、どっちも素晴らしい」「日本の文化である落語の道で生き、日本が大好きやから、韓国人に落語を在日の僕が韓国語で伝え、落語っておもしろいと韓国人が思ってくれたらいいな」と韓国語落語に励んでおられます。(話戻さなくっちゃ^^;)
チャング(韓国の太鼓)とアコーデオンの音が懐かしの昭和歌謡を奏でながら、舞台全般をにぎやかに包み込みながら、在日一家を通し大きな歴史が描かれていく。
冒頭のシーンで末っ子息子の時生が屋根の上から語る。「僕はこの町が嫌いでした。この町に住む人が嫌いでした。時代は高度成長期の真っ只中。なんもかも変わっていくけど、この町だけは昔のまんま。おっちゃんらは昼間からベロベロで、おばちゃんらはろくでなし亭主をこき下ろしながら共同水道の周りで一日中過ごして、笑い声と泣き声とわめき声と怒鳴り声が朝から晩まで騒がしい」。そんな中、再開発の波が押し寄せ、戦後国有地を不法占拠した在日韓国人集落が立ち退きを迫られる。
大学出ても働き口のない娘の亭主が叫ぶ。「一生懸命やればやるほどアホみることになる。俺ら在日のやってることは底辺這いずり回ってるだけや。矛盾の塊や在日は。差別と偏見にまみれ、日本に憎んで、韓国に恋焦がれ、それでもこっから離れられへん」と。
中学校でいじめられ傷だらけになって帰宅した時生に、戦争で腕を失ったアボジが言う。「わしらはこれから先、ずーと日本で暮らしていく。そやから日本の教育が一番や」「わしらにはここしかない。行くとこはどこにもない。この日本で闘っていかんなあかんのや。いじめぐらいなんや」その直後、時生は屋根から飛び降り自殺した。  
いじめ、自殺、結婚、不倫、妊娠、立ち退き、北朝鮮、別れ…という、とても重いテーマを絡めながらも涙と笑いで日本と韓国の現在・過去・未来が描かれている。この手の話にありがちな観終わった後の重たさやドロドロ感は不思議なくらい残らない。作・演出の在日韓国人鄭義信(チョン・ウィシン)の上手さだろう。在日の苦労の歴史を悲劇視せず、むしろ貧乏を笑い飛ばす力強さが観る者にパワーと爽快感さえ感じさせる。胸のつかえのとれた後味で心も軽くなり、一緒に観た人たちと思いを語りたくなった…
ラストシーンで時生が言う。「僕はこの町が嫌いでした。でも、時間が経てば懐かしくなるでしょう。そしてきっと、こう言うでしょう。この町と人が好きだったと。みんなみんな好きだったと…」 桜吹雪が舞い散る中、アボジの引くリヤカーは去っていく…
このラストシーンは私の実体験と重なりちょっと泣けてしまう。
私は在日ではないが、こういう騒々しい在日家族の風景をみるとなんとも懐かしい想いがする。私の育った家庭は6人家族。父と母は無学で自営業、戦後、堺で一番大きな八百屋を営んだが、私が生まれてからは商売が傾き、父は株に失敗し、酒と博打に明け暮れ、借金だらけで、毎日喧嘩が絶えず、割れた窓ガラスには受賞した子どもの絵さえも無造作に貼られ雨風をしのいでいた…わめき声や怒鳴り声の中で私は育った。誰もかれも、家も学校も何もかも嫌いだった。よく屋根に上り妄想にふけった。姉が家出したり、母が錯乱して「一緒に死のう。何もかもなくなってしまえばいいー!」と家に火をつけたり…落ちるとこまで落ちて私たち家族は店も家も棄てて町を去った。
大嫌いだった父と母を軽蔑し反面教師にして私は生きた。
あの頃が嘘のように、今は心穏やかに過ごしている。明るく笑っていると、人からはお嬢さんで育ったあなたにはわからないだろうけど…とよく言われる。苦労が顔に出なくて良かったと思う。あんなに嫌っていたアホでバカでどうしようもない両親のことも、その波乱万丈の人生を思うと、必死だったことも理解できるし、恥も外聞もなりふりも構わず4人の子どもを育ててくれ、私よりはるかに偉かったと思う。もう亡き両親のことを、2人の子どもを育ててみて、今だから誇らしく思える。そしてあの喧しくてドタバタした日常も、今思えば人間くさくて、結構面白かったかもしれない…あの家も家族も、あの時の自分も愛おしく思う。あの家で繰り広げられた家族の物語は、私の胸の中の宝物だ。
 私はみんなが好きだった。そして今も。私の周りにいる人たちが好きだ。(I.I)